築地本願寺

九条武子さんの歌碑が築地本願寺境内にありますが、その歌碑のそばには07年ころ期間限定で、月刊誌「ソトコト」と築地本願寺のコラボでレストラン「カフェ.ド.シンラン」がオープンしていました。
当時、ソトコトに勤めていた我が家の友人の美緒ちゃんが「カフェ.ド.シンラン」の担当だったので、私も何度かカフェドシンランに行っていて九条武子さんのことに関心をもちました。

何度か行くうちに築地本願寺の建物が、なぜ日本的な仏教建築でないのだろうといつも不思議に思っていました。

ちょうどそのころ美緒ちゃんを通じて知った「地平線会議」で日本の探検隊の歴史の話を聞き、そのときに京都西本願寺大谷光瑞大谷探検隊を知りました。

なぜ僧侶が探検?
その探検隊と築地本願寺の建築が結びついてるという話もありましたが初めて聞く話ばかりで、探検といったら単純に冒険というようなイメージしかない私の頭は僧侶と探検隊というのがさっぱり結びつかなくて不思議不思議なことばかり。


いま武子さんのことからだんだんそれらの不思議がわかってきました。

築地本願寺は京都西本願寺の直轄寺院。
武子さんは結婚してから10年くらい後、ご実家でもある築地本願寺に住むことになります。

武子さんの兄は、京都西本願寺22世法主大谷光瑞でインド、シルクロードなどへ仏跡調査などの大谷探検隊を派遣していましたが自らも参加してたのです。

その途上で大谷光瑞は、インド、トルコ、中国などへ建築を学びに行っていた建築家伊東忠太と出会います。

この出会いがのちの築地本願寺の設計依頼へとつながっていきます。

海外の建築を見てきた伊東は、その後斬新な古代インド仏教様式の築地本願寺の建築を生み出しました。

伊東忠太は、ジョサイアコンドルの教え子である東京駅の設計者辰野金吾の弟子にあたり、日本の近代建築に新たな風を吹き込んだそうです。

この築地本願寺が完成したのが1934年。
武子さんは関東大震災の震災復興事業に尽力されたあとまもなく1928年に42歳で亡くなってるので、この新しい本願寺に住むことはなかったのでした。  

















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