津田梅子と石井筆子

津田塾大学で津田梅子生誕150周年記念講演会がありました。

「梅子と交流のあった明治の国際人石井筆子の視点から、明治の女性たちの国際交流を考える」
講師はコペンハーゲン大学 長島要一教授

長島教授はデンマーク滞在が40年以上になる方で森鴎外の研究や「あなたの知らないアンデルセン」などの著書があります。  
明治の国際人石井筆子」を上梓されたばかりです。

津田梅子が米国留学したのは周知のことですが、梅子より3歳年上の石井筆子も皇后の命により19歳でヨーロッパに留学しました。
帰国後、筆子は3ヶ国語を繰る才媛となり、皇后の通訳を務めたり、山川捨松とともに鹿鳴館の華といわれるようになりました。
アメリカ大統領グラント将軍が来日したときも相手をして「日本で最も聡明な女性」と言われ外交官並みの会話ができるといわれました。

その後梅子と筆子は華族女学校の教師となり、梅子は英語、筆子はフランス語を教えるようになります。
教え子の中にはのちの貞明皇后がおります。
そのころヨハンネ.ミュンター夫人と出会います。
夫人の夫はデンマークの武器商人バルタサー・ミュンターですが、仕事で妻を伴って日本に滞在していました。
ヨハンネ夫人は女学校を視察したことから筆子と知り合い親しくなっていきました。
筆子は親が子ども時代に決めた許嫁との間に3人の障害児を儲けて育児に苦労し、また病気の夫の介護に尽くしていたのを知り、ヨハンネ夫人は日本人女性の現実を見ていきました。
筆子はヨーロッパで女性たちの生き方を見てきてとても刺激を受けてきたのに、帰国後は親の決めた許嫁と結婚するなどの自分にもどかしさを覚えていたようです。

帰国後、ヨハンネ.ミュンターは「日本の思い出」を著しています。

筆子は障害児の長女と共に受洗しましたがそのときの教母は津田梅子でした。

その後帰国してから、ヨハンネ夫人は国際婦人参政権連盟に関わるようになり、筆子にも婦人参政権運動を促します。
筆子は静修女学校の校長を梅子に譲り、障害児教育の滝乃川学園の運営に携わるようになりますが、生涯ヨハンネ夫人とは親交を深めあいました。
明治三大美人と言われ華麗なる人生の前半を過ごし、後半は過酷な人生を生き抜いた筆子でしたが、
終始折れそうな心を支え続けてくれてたのはヨハンネ夫人との交流だったということです。

花子とアン」以来 明治の女性たちや学校に関心もっていたら石井筆子という人物に行き当たりました。
それで少しづつ調べていたところでしたから、なんていいタイミングだったんでしょう!!








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