このごろいいご縁が続いています。
これらの「縁」の起こりを、自分の頭のなかで過去に遡って検証していたら、偶然にもネットのなかで、その縁について書かれたいい話がいくつか見つかったのです。
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和田裕美さんhttp://www.perie-net.co.jp/index.htmlのスタッフの 住田さんのメルマガから)

「円」は、お金という意味もあり、輪という意味もあります。
「縁」は、人とのつながり、思いやり。
「援」は、誰かを応援したい。
上の3つは、このように三角形で密接に絡まっていて、
どれか1つなくなっても成り立ちません。

       円


     縁 ―――― 援
だって、たとえば、
「円」がなければ、生活していくことができません。
「縁」がなければ、お客様を増やすことができません。
「援」がなければ、自分本位なことしかできず、人に見捨てられます。
この世の中に、
人と接することがない人は、滅多にいないと思います。
この3つの「えん」を全て兼ねそろえることが
幸せな人生を手に入れていくために必要なことです。
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(0円ハウスの建築家の坂口恭平さんの2004年5月15日のブログ)http://www.0yenhouse.com/profile.html

南方熊楠は、世の中には「物」と「心」があって、その二つが結びついたときに「事」が起きるといっている。
これはどうゆう事かというと、目の前にりんごがあるとする。
りんご自体は「物」である。
それを私が食べようと思う。これが「心」。
そして私は食べるためにりんごを手に取る。これが「事」である。
このように、世界には、「物」や「心」は散らばっていて、それらが「縁」によって「事」となり現象として現れてくる。
彼が言っていたこのことが、パリでも頭から離れなかった。
自分で考えているだけでは何も変わらないが、その「心」をもって、人と会ったり、場面に遭遇したときに「事」、偶然が起こる。
ということは人と人が会うということは、その二人どちらもが「心」をもっているから、「物」としての自分の体が、違う誰かの体と「事」を起こす。
ということは全てが必然であるということではないだろうか?
この考え方は、最近、物理学のなかでも適応しているらしい。
原子と原子が出会う理由が「縁」という概念で説明されているのだ。
人間だけでなく、物体にはすべて「縁」が潜んでいる。
それが科学の考え方として現在では普通に取り入れられているが、そのことをチベット曼荼羅では既に大昔に、物体と物体は「慈悲」によって出会うといっているのである。
偶然の出来事の中に、実は、世界が保たれている理由が隠されているのではないかと思う今日この頃。