シリコンバレーから

日曜日の朝、シリコンバレーの友人から連絡がありました。
今ビジネスで日本に来ていて数日間、東京に滞在してるというのです。
夕方都合がいいというので、坐骨神経痛の痛みも一瞬忘れ、何がなんでも駆けつけなくちゃという思いで新橋で会うことになりました。
彼と会うのは数年ぶり、、、わくわくします。

豊島園のフリーマーケットのあと新橋へ。
いよいよ感動の対面です。
シリコンバレーで大実業家になってるというのに、相変わらずなんともラフな格好です。
だからいつまでも私のようなものが気楽にお付き合いできるんです。

世界中を駆け回ってビジネスをやっていてとても忙しいというのに、よく連絡をしてくれたと大感激です!
もう10年近くなるでしょうか、娘と私はシリコンバレーペンパルを訪ねていったとき、彼夫妻が空港まで迎えにきてくれて、私のペンパルの家まで送ってくれたのです。
娘はそれ以来ですからとても懐かしく再会を果たしました。
彼はシリコンバレーから中東に行きカタールの首都ドーハから日本に来たそうですが、飛行機の乗客は1/4ぐらいだったそうです。
やはり外国人客は少なくなっているんですね。
数年前来日したときに会ったときは、友人たちと会社を作ったことやアメリカのテレビに出演したことなどを報告してくれたのですが、それからどんどん規模が大きくなり、今では世界中を飛び回るまでになったそうです。
 
ipodの中にある世界中の写真を見せてくれ、世界のビジネスの体験を語ってくれました。
彼はたくさんの特許をもっていて彼の研究開発したものが世界中で使われているのです。
話のなかには錚々たる世界の実業家たちの名前がでてきます。
若いときから堂々たる風格をもっている彼でしたがますます大きな人物になってきてるなーと感じました。
実業家としても並々ならぬ苦労を経験してるのが話し振りから感じられましたが、それらがみな血や肉となって逞しくなっていってるようです。

中国では最近、子どものことを小皇帝といって大変な英才教育をしているのですが、
彼は、自分が親から自由に育てられたのがよかったからといって、自分の子どもにも一切勉強しなさいとはいわず自由に子育てしているそうです。
以前、彼の会社に母校の大学教授から推薦されたとても優秀な学生を採用したら、研究はよくできたけど、人間関係がうまくいかなくてやめてしまった社員がいるそうです。
「社会にでたら、頭脳の優秀さだけではやっていけないんですよ」とたくさんの社員をかかえて体験したことを語ってくれました。

アメリカでは、シリコンバレーをはじめ西海岸に集まってきてる人々は大企業で働くのは格好悪い!自分で起業しなくちゃ!っていう風潮が強く、東海岸の人々は大企業嗜好が強いそうです。
名残り惜しかったけど次の仕事があるというので「今日はあなたに会えていろいろな話が聞けてとっても元気になったわ。ありがとう!」とお礼を述べたら彼も「こちらこそ!私もお会いできて元気になりましたよ」と社交辞令とは思えないような真顔で、またの再会を約束して別れていきました。
今となっては彼と個人的に会えるというのは、とても贅沢で「MOTTAINAI」という状態になってきました。
彼にとっては私と会うのは、単なる箸休め程度だと思うのですが、私にはとてもビッグな贈り物でした。
彼とはアジアの留学生や若者たちの交流会で出会って以来、彼の人柄にひかれずーっと陰ながら応援してきました。
出合ったときは、彼がどういう人物なのかどこの出身なのかも全然知らなかったのです。
交流を重ねるうちにポツリポツリと語る彼のことばに驚かされていったのです。
彼は中国のトップクラスの大学出身でした。
独学で学んだ日本語は、居酒屋の主人に「あなたは北海道出身ですか?(笑)」と聞かれるほどになっていました。

その後も何人かアジアの青年たちと出合っていったのですが、親しくなっていった彼らがみな一流の人物になっていったのです。

ある芸術家が「あなたは真実を見る眼をもっているか」と問うていましたが、まさに大いなる何ものかに試されていたようなものでした。
続々と世界の名門校をでた青年たちが我が家に集まってきたあのころは私にとってまるでバブル全盛期のようでした

我が家で異業種交流会をやりたいねと彼にもちかけたら、主婦らしからぬ発想だねって笑いながらも共鳴してくれ、いろいろな国の若者たち、家族連れなどを招いて、ときには公園でバーべキューなどやったり何度と交流の場を設けていきました。
毎回毎回彼らからいろいろな話を聞かされ刺激をたっぷり受けて、この出会いをエンジョイしていました。
彼は松下幸之助を尊敬していて憧れていました。あるとき松下政経塾の一日体験をしてきたのですが、外国人では初めてだったそうで、強く入塾を勧められたそうです。
彼の将来の夢は経営者になることだといって、いつも経営者の立場に立って物事を考えて行動しているのにはいつも感心させられていました。
そのころは、インターネットが急速に普及してきてシリコンバレーではベンチャービジネスということばが盛んに使われ出していました。
彼ともよくベンチャービジネスシリコンバレーの話をしていました。

ベンチャービジネスの精神に私も強くひかれていてそのころ渋沢栄一カーネギーなどの本にも出会っていたので、彼に夢を託していたのかもしれません。
我が家の息子が小学生のとき、「大人の人に仕事についてインタビューする」という学校の宿題があったとき、彼に答えてもらいました。「夢はアメリカに行って実業家になること。自分の会社の製品が世界中で使われるようになることが夢」というなんともスケールの大きいものでした。さぞ息子の担任は驚いたことでしょう!
学級通信に載せてくれました。
あれから十数年、、、夢がすべて実現してるのです。まさにアメリカンドリームです!

あのころ日本では、アジアの人々は冷遇されていて、一流企業に勤めていた彼でもアパートを借りるのも大変だったのです。職場での出来事も話してくれました。
彼が日本で辛いめに遭ってたことを充分知ってる私だからこそ一入喜びが大きいのです。

日本人としか付き合っていなかったら、日本社会のことがよく見えなかったと思います。
彼らのおかげでいろいろなことがわかってきました。
家族でカラオケにいったこともありました。
彼と過ごした日々が走馬灯のように思い出されて感無量になりました。
まるで野口英世の母の手紙の心境です。「おまえの出世にはみなたまげました。わたくしもよろこんでをりまする。」