合唱団の慰問

震災から一週間くらいたったころ、ニュースで、仙台の中学生たちが体育館で避難生活している方々を慰問して合唱を聞かせてる様子が報じられていました。

熱心に聴いてるお客さんたちのなかにはハンカチで目を押さえながら聞いてる方たちが何人もいます。

出場曲なのかどうか知りませんが、この会場のみなさんにはふさわしいような歌詞です。

「 いっしょうけんめい生きる

明日がある限り

しあわせ信じて 」

この中学生たちは、合唱コンクールに出場するために一生懸命練習していたのに、この震災でコンクールがとりやめになったのだそうです。

コンクールに出れなくなったのはとても残念だったでしょうが、それ以上にこの日の聴衆者の反応を見たことは、コンクールでいい賞をもらったよりも、喜びが大きかったかもしれません。このお客さんたちはとても素晴らしいな審査員だったと思います!
きっと、中学生合唱団は「何のために歌があるのか、なぜ歌うのか、音楽を学ぶのはなんのためだったのか」というような根本的なことに気づいたのではないかと思います。

いや、聴衆者に教えてもらったといったらいいかもしれません。

それまではいかにコンクールでいい賞をとれるかばかり気にしてたかもしれませんが、自分たちの歌がこんなにも多くの人の心を動かすことができたのだということを知って驚いたと思います。

このことからあるエッセイのなかにあった外国の音大生の話を思いだしました。

首席で音大を卒業したばかりの女子大生がかつての恩師の前で、バイオリンを披露したら、

先生はほめるどころか「あなたはまだ土台ができていませんね」と指摘されたのだそうです。

どういうことですかと問うたら、「いままでに、あなたは音楽と人生ということについて考えたことがあるか。なぜ音楽を勉強するのか。バイオリニストになる目的はなにか。そういう精神的なことを指して言われたのでした。
考えてるうちにいくらかのあてがわかりかけてきました。
わかってくると不思議にいままでとは違った曲の解釈ができるようになってきたのです。」
かつて天才バイオリニストの千住真理子さんの講演を聞いたのですが同じようなことをお話されていました。
千住さんは、小さいころから天才バイオリニストだったため、社会の期待がどんどんふくらんでいき、際限のない努力を強いられるようになっていったのです。
純粋に音楽をたのしむという本来の意味は忘れられ、次第に精神的に疲れていき演奏活動を休止してしまいました。
しばらくたったころ知人から老人ホームで演奏してくれるように頼まれました。しばらく演奏していなかったので躊躇したのですが、思い切って引き受けることにしました。久しぶりにバイオリンを手にし老人の方達になじみの曲を選んで弾いてあげたのです。会場のお年寄りたちは次第に活き活きとした顔になっていき涙を流す人々もいるのでした。その様子を見ているうちに千住さんはしばらくぶりに演奏家としての本質について気づかされたのだそうです。
そのことがあってから、またバイオリンをとって演奏活動をすることを再開したのです。